某干潟産ホンビノスとマテ貝の都市河川の香りを料理でなんとかしたい!
干潟ってすごいですね。
大潮でも満潮と干潮の差が20cmほどしかない日本海沿いに生まれたので、潮の満ち引きというのをあまり実感せずに育ってきました。
東京に越してきて驚きました。その辺の川、しかも海のすぐそばってわけでもないのにみるたびに水位が違うのです。大雨が降ったあとでもなく。
こちらでは大潮には満潮と干潮の差が約2mもあるのです。6時間前にはざぶざぶとしていた海の水が完全に引いて、砂や泥が露出して、歩いていけるなんて!魅力的すぎませんか。
こうして今年3月に、はじめて干潟デビューしたわたしは、潮のいい週末にたびたび潮干狩りに向かうようになりました。
ちょうど先週も、マテ貝とホンビノスをとりに河口へ行きました。
まずマテ貝ポイントに行くと、その日はちょうど干潟おじさんがいて、かたっぱしから話しかけてマテ貝レクチャーをしていました。苦笑
逃げるように少しずつ離れながら掘って塩かけて…15本ほどいただいて終了。
そのときの発見、なにもぎりぎり水際でなくてもよいのだと。
ちょっとでも水があると、掘った穴に水がきてしまって塩がかけずらいし反応もよくない。
バシッと水が引いてるとこの、表面の穴を掘っていって、楕円形なら塩をかけると、すぐにひょこっと出てきます。
次に泥地のホンビノスポイントに移動。
外国語が飛び交い、そこいらに置いてある、スーパーのカゴほどの大きさのコンテナにホンビノスがぎっしり……わかりやすいポイントです。
ホンビノスはほんとに大きくて達成感があっていいですね。
泥を掘っていくと「ズカッ」と衝撃がきてでかい貝が採れる。体験です。
(ちなみに衝撃の6割はオキシジミで、水をぴゅーっと吹き出してきてがっくりします。あとシオフキガイも。)
道草して野良ミントと若オニグルミを採って帰宅。
さて、本題の料理。
掘果はマテ貝15本、ホンビノス6つ。
一晩塩水で砂抜き(+貝内の水分をきれいな水に入れ替えたいという気休め)を施します。
いつもはガーリックバターソテーやバター醤油焼きで食べます。
強めの味付けでないと、やや都市河川を感じるのです。
ホンビノスを焼いている時なんてまさに都市河川沿いを歩いているような気持ちになります。
食べるとそこまで強烈という訳ではないのですが、やはり少し気になります。
そういえば気になっていたのが、クラムチャウダー。
「幕張新名物!」と銘打ったホンビノスのクラムチャウダーのお店があるのです。
クリーム系の味付けはひょっとしていけるのではないか。
やってみましょう。
[ホンビノスのクリームパスタ]
・ホンビノスは耐熱皿に並べ焼いて、殻が空いたら身を取り出し4等分に切る。
・フライパンにオリーブオイルをひいてニンニクみじん切り、ベーコン、唐辛子、玉ねぎを炒める。(ボンゴレより控えめの分量)
・さっと炒まったらバター、白ワイン、切ったホンビノス、耐熱皿に残ったホンビノス出汁を入れ、(ノロが怖いので念のため)かるく煮つめる。
・豆苗投入、生クリーム投入し、沸騰したらパスタを和えて完成。
マテ貝はなんとなく中華風に。
ごま油とにんにくしょうがでやっつけようという雑な魂胆です。
[マテ貝の紹興酒炒め]
・ごま油を熱し、にんにくとしょうが、粉唐辛子を炒める。
・マテ貝投入、油が回ったら紹興酒をかけて貝が開くまでフタをして蒸し焼きに。
・フタを開け、白ネギを和えて、最後に醤油をちょっといれて完成。
さて、実食です。
ホンビノスのクリームパスタから。
これは完全に都市河川を感じません。でも貝の出汁のうまみ成分が生クリームやバターと合って、濃厚でとてもおいしいです。
チーズ入れていないのに、入っているかのような風味。
ホンビノスの身が大きいので、4等分しても十分に食べ応えがあります。
豆苗を入れたのも歯ごたえがあってよかった。濃厚な中でのさわやかさは大事ですね。
ボンゴレビアンコよりは刺激が少なく、「貝!!!」ほどの主張はありませんが、まったりしみじみおいしいパスタになりました。
これは都市河川ホンビノス料理の一つの正解といっていいのではないでしょうか。
次にマテ貝の紹興酒炒めを。
がっつりした味付けを施しましたが、それ以上に貝の風味ががつんときますね。
マテ貝は貝自体の味がかなり強く、貝が苦手な人はほんとうに苦手だろうなあ、という味です。
すこし塩辛くなってしまったので改善の余地あり。
汁がはちゃめちゃうまい。ご飯投入決定です。(つまり一食でパスタと米両方食べたということです)
マテ貝本体は味付けに左右されない屈強さがあるので、出汁を生かした料理、それこそパスタとかに活きるのかもしれません。
ただし殻が薄いため割れやすく、破片が料理に混ざりやすいため工夫が必要でしょう。
(採るのが下手で、引っこ抜く際に5割の確率で割ってしまう…)
どちらもおいしくいただきました。パスタは今後ガンガン食べていきたいです。みなさんも、ホンビノスを掘ったらクリームパスタにしてみてはいかがでしょうか。
20180610
久しぶりの何もない週末だと思う。
スケジュール帳を買ってすらいない、だらしのない人間なので正確にはわからない。
友人の少ない私にとって、休日の予定が立て込んでいたなんてとても珍しいことだ。あと長めの風邪をだらだらとひいていて、禁酒をしていたのだった。
昨日は昼過ぎまで寝て、掃除洗濯などの家事一式を片し、自家製ラー油で麻婆茄子を作って明るいうちから飲んで、また寝て、スライムを作ってこねていた。知り合いがn人目の子どもとか言ってる中、果たしてこんなダメな20代女性がほかにいるだろうか。楽しいんだけどダメな気がする。
今朝も昼過ぎまで寝て、起きると雨だった。寝すぎて体が重い。これが私のいつもの休日だ。
いつもと同じなのにどこだか寂しい。ここんとこ珍しく休日に人と会っていたからか、いやもともとそうだったか。
いつもの休日どおり、ラジオをききつつ4時間散歩をしよう、と思ったけれど、雨だ。
ふと、レースカーテン越しにベランダを見やるとだいぶ緑が見える。プランターの大葉とみょうがの葉があほみたいに成長している。毎年初夏に、奴らは急成長する。毎日伸びるのがわかる。洗濯物が干しづらくてかなわない。私と対極に生き生きとしている葉っぱにしずくがかかっているのを眺めながら、甘くないレモンサワーを飲んだ。
そうだ雨靴を買ったんだった、と思い出したのは15時を過ぎていた。2時間だけ、オールナイトニッポンを聴きながら歩こう。日が伸びたのだから16時からだって余裕を持って散歩ができる。
傘をさして雨靴履いての散歩もよいものだった。雨音だけがきこえる神社でひとりひっそり参拝をして、ストロングゼロ片手に自販機のお釣りを漁るおっちゃんの後ろ姿を見たり、ポロポロ落ちているヤマモモを見て街路樹を見上げたり、手を伸ばしてふたつぶほど失敬したり、植え込みのあじさいを眺めたりした。
(これは先週鎌倉にあじさいを見に行った時のもの)
関東は青いあじさいが多いようだ。地元はきれいなピンクか紫が多かった。酸性とアルカリ性の土壌の差だろうか。ピンクが苦手で青が好きな私は、もっと青がたくさん咲いていたらなあと思っていたのに、今ではきれいなピンクが恋しくなった。手に入らなくなってはじめて恋しくなるなんてめんどくさい人間ではないか。ああだるい。全てだるい。雨のせいだ。
冷蔵庫の食材もあまりないし、ストックの缶のお酒も飲み尽くしてしまった。今から帰って晩酌の準備をする気分でない。
帰りがけに、家から近い小洒落た居酒屋によって、一杯やっていこうか。
人生とはうまくいかないものでそこは日曜定休だった。なんだかとても悲しくなり、耐えかねて、土砂降りの日曜の夜という間の悪いときに友人を誘う。こんな日に来てくれるなんてありがたや。なじみの居酒屋へ。
ハモの湯引きとアナゴの白焼きを食べる。表面だけさっと火の入ったハモを梅肉でさっぱりいただく。火の通ったハモもおいしいが、半生もおいしいものだ。夏だなあ。アナゴ白焼きは、カリッとした皮目にレモン絞ってわさびとで最高だった。煮付けないウナギ目万歳。(うなぎは絶滅しかけてるので食べない)
……しかし後で聞くと友人はウナギ目が苦手だったという。ほんとうに申し訳ない。
その後、カラオケに向かいサクッと1時間ユーミンを歌って、1日を締めた。
雨の曲は「12月の雨」「ベルベット・イースター」がほんとうに好きだ。どちらも梅雨じゃないけど。
今週のお題「雨の日の過ごし方」に間に合わず……
新緑のGWに、田舎へ帰省した話
今年のGWは「最大9連休」。
私もみごと9連休をいただくことができたので、かなり田舎である地元へ帰省することにした。
有給取得がきまったのが直前だったので、詳細な予定を立てていたわけではないが、とてもとても楽しみだったのである。
というのも、地元を離れてから、夏と冬くらいしか帰れなかったので5月の地元なんて高校卒業以来なのだ。いったい何年ぶりだろう……
現在は東京で暮らしているが、田舎で生まれ育ったからか、いや、もともと家の中で遊ぶより外を駆け回っているのが好きで、雑草や川や生物が好きだったからか、「自然の中で遊びたい」という気持ちが強い。
もちろん都会には都会の生態がある。よく河川敷を散歩したり、ちょこちょこ野草を摘んだり、都市河川の干潟でマテ貝やホンビノスなどの潮干狩りをして楽しんだりしている。
しかし、澄んだ川や、白い砂浜と青い日本海、広がる水田やその用水路、あまり踏みしめられていない山辺などが恋しくなるものである。
毎年、夏冬の帰省を楽しみにはしていたのだが、同じ季節ばかりで飽きていたところ。今回は新緑の春だ。わくわくする。
新幹線や特急を乗り継いで、実家に帰るとまず、母の手料理が出迎えてくれた。
母の料理は、いわゆる「インスタ映え」はしないし、凝っているわけでもない、ごく平凡な日本の家庭料理なんだけど、わたしはこれがほんとうに好きだ。派手なものでないので少々食べ過ぎても身体に負担が少ない。私が太っているけど健康的だったのは、母のおかげかもしれない。
バイ貝でビールを飲んだあと、チャーハンにはまっているというきょうだいにシメを作ってもらう。
ほとんど写真には残っていないが、地物のカレイの干物やノロゲンゲ、ワラビ、タケノコなどなど、海と山の幸を堪能した。
どぅるどぅる(と私は勝手に呼んでいるけど、のろげんげ)が煮られている! pic.twitter.com/gqjbGPcqUb
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年5月2日
伝わるだろうかこのどぅるどぅる感…! pic.twitter.com/4xu9CEIFTt
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年5月2日
わらびとろろTKG pic.twitter.com/EaXxy91MiT
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年4月30日
ワラビが新鮮ゆえにあまり熱を入れていないので、とろろにするにはカクカクしてるけど、これはこれでいい食感だった。
わらびはとろろにしなくても、ごくふつうに生卵にくぐらせて白米にバウンドさせて食べるだけでおいしい……春だいすき…… pic.twitter.com/BXC7cRHii4
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年5月1日
やっぱりみんなで食卓を囲むというのはいいものだ。
次の晩は、地元の友達と居酒屋に。ごくふつうの光景のようだが、実は地元でお店で飲むのは初めてだ。なんせ田舎すぎて居酒屋が少なく、車に乗らないと辿り着けないという困難さ。今回お迎えを頼んでの参戦。
海のある地域だけあってお魚がおいしい。カワハギの造りとフグのから揚げが今回のベスト。季節のものの天ぷらやサラダも、見た目が鮮やかで、旬のものがきちんと調理されていておいしかった。
さて、食べてばかりいては仕方ない。
山辺や川沿い、田んぼの周囲なんかを見ようとママチャリでサイクリングに出かけた。
山が新緑で濃淡のまだらな緑になってとてもきれいだ。藤の季節なので、たまに淡紫が混ざる。こんなところにも、あんなところにも藤があったんだなあ。この季節にしか気づけない。
ちょうどゴールデンウィークといえば田植えの季節。休耕田、耕されている田んぼ、水が引いてある田んぼ、田植えの終わった田んぼ……そういえばめっきりみていなかった。稲の伸びていく様子で季節を感じていたんだった。
(電車がなく「列車」なので電線がない)
実はこのサイクリング、アミガサタケ探索も兼ねていた。こっちは気温が低かったらしいので、ひょっとすると老菌が見られるかもしれない…と。
結論として見つけられなかった。時期が遅かったのも当然だが、ここはポイントじゃないのかもしれないし、あるいはこの地域自体にないのかもしれない。
楽しかったのでよしとする。
野良山椒はあちこちでいた。
防空壕が物置になっている様子。防空壕らしき跡は田舎にはいっぱい残っている。
しかし地面がふかふかなのに驚いた。今まで東京付近でアミガサタケ探索はしていたのだけど、人が多いので地面はかたく踏みしめられているし、落ち葉も雑草も清掃されてしまっているところが多かったのだ。改めて体感した。もっとふかふかのポイントを見つけなければ…。
そういえば、サイクリングをしながら野草を見つつ思い出したことがある。この地域にはほとんどノビルが生息していないのだ。見かけるのは畑のあぜから逃げ出した野良ニラ、アサツキばかり。
単にわたしの見逃しでなく、ここにずっと住んでいる人々に聞いてみてもそうらしい。
だから、地元を出るまで私にとっては「憧れの野草」なのであった。最も有名な食べられる野草のうちの一つに憧れるというのは妙なのかも知れないけれど。
さて、今回の帰省でいちばん楽しみにしていたのが磯物採り。
日程的にこの日!というのが決まってしまっていたので、天気が悪くてもリトライできない。
日本海は、太平洋側と違って干潮と満潮の差が20cmほどしかない。某干潟、三番瀬が2m近くあるのと比べて大違いである。
(仮に2mあったとしても、遠浅とは真逆なのでたいしたところまで行けない)
潮が引かないということは、海遊びは波が命。しかし無情にもこの日は大荒れの予報…。
当日の朝、雨はほぼ降っていないが風が強い。
「とりあえず海を見にドライブに行って、もし風が落ち着いたら磯に行ってみよう。」ということになった。
ワンチャンというやつだ。
まず向かった先は浜辺。
海辺の雑草は肉厚でつやのあるものが多いなあ。
ちょっとしたテトラや岩場のほうを探索してみる。
案の定、波はなかなかの荒れだ。
本日の日本海、なかなかに荒れております…… pic.twitter.com/j5SVYhdH9R
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年5月3日
でも予報ほど大げさな荒れ方ではない。空もだんだん晴れてきて、日が差すようになってきた。
よし、本命のポイントである磯に移動!
強い風に雲が流されて、めちゃめちゃ晴れた。これは嬉しい誤算だ。
釣りをしたり遊んでいる先客もいる。
さあ、貝をみつけて遊ぶぞ!
岩の起伏が大きいのでよじ登ったりとび越しして波打ち際まで降りるのが楽しい。
岩質がごつごつザラザラしているので滑りにくいのがありがたい。
進むたびに、大量のフナムシが一斉に逃げるようすに背筋がぞわぞわする。
普段はもう少し海側へいけるが、波が荒いのでほんの手前で貝探しをスタート。
いるいる!透明度は高いけれど波があるのでようく目を凝らさないと見つけられない。夢中になって下を向いているうちに大きな波がきて、靴はびしょぬれに。
最終的に、イシダタミガイ・スガイ・クマノコガイの3種が採れた。
カサガイ系もいたのだが小さめだったので今回はスルー。
まとめて塩茹でにして、晩のいいつまみとなった。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、帰りの日が来てしまう。
自分へのお土産として、庭で勝手に生えてきていた*1小さな山椒を苗として持ち帰った。
一応定着したようで一安心。ちゃんと育ってくれるといいな。
最後に、心残りとしては、コウノトリが見られなかったこと。豊岡で放鳥されたコウノトリは、この地域まで飛来してきて定着しているとのことで、地元ではよく目撃されている。こればかりは運、残念ながら今回は遭遇できなかった。ぜひカメラに納めたい。次回こそ。
無題
・感性が田舎者なので、ズボンのことを「パンツ(↑)」と呼ぶのに抵抗があり、未だにズボン(ダサい)と呼んでいる。
・感性が田舎者なので、未だにAirPodsのデザインが受け入れられず、どうしても耳からうどん(食べ終わる頃の丼の底にたまった、半端な長さのもの)を垂らしてる人にしか見えない。*1
・視力が下がったので、コンタクトを作りなおしに行ったところ、受付のお姉さんに「レンズのほうパワーアップですね〜」と言われてちょっと笑ってしまった。コンタクト業界では、レンズの度数が上がることを「パワーアップ」と呼ぶのか。私のコンタクトはパワーアップした。
・眠りに落ちる直前、なにか真剣にものごとを考えており、しかしほぼ眠っているも同然なので支離滅裂なんだけれど、でも自分の中では理屈が通っていてすごく納得している。うまく説明できず共感を得られないのだけれど。ふと実家に帰って、父がYouTubeを観ながら寝ていて、イヤホンを外してやると起きて、意味のわからんことを熱心にひとことふたこと話すと、またいびきをかきだしたので、「ああ、これは父譲りなのだ!」と実感した。
シャンプー4:リンス1
シャンプーは毎回4、5プッシュほど使うのに対して、リンス*1は1プッシュ、それも軽めの1プッシュですむので、いつもシャンプーばかり買い足すことになる。
シャンプーをころころ変えてみたい私にとってはかなりのストレスだ。かといって、シャンプーとリンスを別々のメーカーにするのは妥協しがたい。ようやくリンスがなくなって、新しいシャンプーとリンスにするときの嬉しさはひとしおである。
なぜこんなにもリンスは減らないのか?理由は単純で、リンスは髪の毛だけにつければよく、地肌には全く必要がないからだ。
あくまで髪の毛のすべりをよくするものであって、地肌には一切効果がないどころか、毛穴の詰まりの原因にもなるのだとか。
そもそも大量につけたところで、髪がひたすらぬるぬるして、流すのに時間とお湯がかかるだけである。トリートメントでもないので長くつけておく利点もない。
シャンプーを詰め替える際の、袋に少し残ったシャンプーや、ボトルに残ったシャンプーを一気に使うのはとても楽しい。貧乏くさいが、いつもよりモッコモコに泡立てて贅沢な気分を楽しむことができる。
ところはリンスはどうか。大量に使ったところで手やお風呂場の床がぬるぬるするだけである。ましてや流すのにかなり時間と労力がかかる。まず髪のぬるぬるを流す。疲れる。そして床のぬるぬるを流す。疲れる。
あの床のぬるつきを足で踏んだ感覚。ああ、書いているだけでテンションが下がってきた。
ということがちょうど先日あったので、お昼休みにお弁当を食べながら話していたところ
「リンスは地肌に必要ないなんて知らなかった……いつもシャンプーよりリンスのほうがたくさん使ってた。家族が「なんでこんなにリンスの減りが早いんだろう」って言ってたのいま思い出した」
と同期からかえってきた。
シャンプーよりリンスの減りが早い人、そうとうレアな人だと思うし、我が家にもいてほしい。
写真は本文と全く関係のない、シェービングフォームスライムです
*1:正確にはコンディショナー
たぶんねこが
今週のお題「ねこ」
たぶんねこが好きだ。
ネコ!ネコ!ネコ飼いたい!
と、ヤバTの歌詞ではないが、将来は一緒に暮らせたらいいなぁ、とずっと思っている。
ひと昔前のような、家の近所のねこに餌付けをして、半家猫にするというようなゆるい付き合い方は認められなくなってきており、
現代では、ねこを飼うとなればペット可の住居で、避妊去勢手術をして、完全室内飼いするということがルールになっている。
残念ながら、現在の貯金や毎月の収入では、万全の体制でねこを受け入れることができない。(ペット可住居うんぬん以前に引っ越すことすらままならない…)
ハードルは金銭面だけではない。
旅行や帰省などで家をあけるときに、預けられる関係の人が周囲にいなければならない。(これは金銭で解決しようと思えばできるが)
一人暮らしだとねこにさみしい思いをさせてしまうし、もし何かあった時のことがたいへん気がかりである。
実家では金魚しか飼ったことがない。
していたのは餌やりくらいで、水槽の掃除はほとんど親がやっていた。*1
毎日の世話の負担、自分の手に命がかかっているという体験をしていないので、いきものと暮らすことの責任というのがいまいちつかめていない。とにかくわかっているのは、ただかわいいからという軽い気持ちだけで飼ってはいけないことだけだ。
ここまでダラダラ言い訳のように書いてきたが、本当に熱烈にねこが好きな人なら貧乏だろうが独り身だろうがいきもの買うのはじめてだろうが飼ってしまうのだから、
(それがいいか悪いかはさておき)
わたしはねこに対してのそこまでの熱を持っていないということだろう。
とにかくわたしは現在ねこと暮らすことができないので、猫カフェに行ったり、ねこスポットまで散歩しに行っている。
猫カフェは、いろんな品種のねこがいる猫カフェよりも、保護猫カフェのほうにに行くことが多い。
単に、血統書付きの純血種の独特の顔つきより、雑種の猫(日本猫)の顔つきのほうが好みなのだ。
猫カフェにいくよりも猫スポットに散歩に行くことが多い。というか、流れとしては趣味の散歩をしていたら偶然猫スポットを見つけてしまい、日々猫スポットが増えていっている、というのが正しい。
ねこがいるとついついスマホで写メってしまう。(とりあえずローアングルで撮っておけばなんとかなるとナメている。)
運良くカメラを持っている日は写真を撮ってみたりするのだけれど、あとで見返すと目やにや毛並みが気になって悲しくなることが多々ある。
それにしても、最近は全国いろんな地域で耳にカットの入った「さくらねこ」を見かける。このブログを書くのにカメラロールを漁ったらいつもの散歩道のねこから地方に行ったときに出会ったねこまで、大半がさくらねこだった。すごいことだなあ。
すこしずつ外でねこと出会えなくなっていくのはさみしいけれど、このまま野良猫がいなくなっていくのがねこにとっても環境にとっても理想的なのだ。仕方ない。
家で飼えない人は猫カフェにいけばいい話だしね。
でも、もし野良猫がいなくなったとしたら、雑種は消えてしまうのだろうか。前述したが純血の品種の猫より雑種の日本猫のほうが好みなのでとても気になる。
雑種を育てているブリーダーさんっているのかなあ。
猫カフェのねこやよその家のねこは、ちょっとなぜることはできても、わしゃわしゃしたり抱きしめたり顔をうずめたりすることはできないのが悲しい。そういうの気にせず自由にさわったり持ち上げたりして存分に可愛がりたい。
ねこの安全の観点から、一人暮らしでは保護猫は引き取れないことが多いという。
理屈はわかるが、一人暮らしこそねこといられたら最高なのになあ。一人だと人間は寂しくなるようにできているらしいが、人とずっと居るのは疲れるし疲れさせてしまう。その点、ねこと居ることの距離感のなんとすばらしいことだろう。
などといろいろなことを思いながら、今日もYouTubeでねこ動画を見るのであった。おしまい。おやすみなさい。
*1:ちなみに和金だったこともあり、8年ほど生きた
たかいたか〜い
ブログをふと見返すと、暗い話と明るい話を交互にしていて躁鬱かよ、となったので、今夜は地味で取り留めのない話をする。中身はひとつもない。
歩いていると、高速道路や大きな国道などが高架になっているところや、大きい橋に出くわすことがある。
それが、以前はとても怖かった。
生まれ育ったのは高齢過疎の田舎だったので、徒歩や自転車の範囲でそんなでっかいものと遭遇したことはなかった。
さいきんは高速道路がきて(平成も終わる頃にようやく!)建ったらしいが、とにかくわたしがこどもの頃そういったものは車に乗っている時以外には見かけなかったのだ。
別の土地に住んで、散歩をしていると初めて国道の高架と遭遇した。
立ち止まって、まじまじと見いってしまった。
ぱっとスケールの掴めない大きな人工物。その辺の道とじゃ比べ物にならないくらい高速で走り抜ける自動車。一般道では見かけないような超大型トラック。かたや生身のわたし。絶対に勝てない。即死だ。こわい。
高速道路なら眺めるだけで済むのだが、大きな橋や国道だと、自分も高架に上がってその横を通らなければならないことがある。それがもうほんとうにこわかった。すぐ数十センチ横を猛スピードで通り過ぎる車。いつもより高い視線、地に足のつかない感覚。大型トラックが通るたびに揺れる地面。ただ歩いているだけなのに、ちょっとした興奮状態になってしまう。
首都高の高架下の道や、高架沿いの河川敷の道を散歩するのが趣味になってから、こわさにもずいぶん慣れた。
最初は、これ崩れたらひとたまりもないなと思っていたけど、眺めてみるとおもしろい。
しずかで開けた視界にずどんと伸びる高架。川や河原の自然と、無機的なコンクリートとのコントラスト。
コントラストでいえば、工事中の高架は、木材があてがわれていたりしているのもおもしろい。コンクリのイメージなのに木って。言葉だと伝わりにくいのだが、ちょうど手持ちに写真がないのが残念。
空を見上げるように高架をみると、まるで空中を走っているようである。なんだか近未来的で好きだ。
そこまで怖くはなくなった今でも大きな橋の上を歩くときは、非日常を歩いているようなそんな気持ちになる。
高所は平気なのにまったく不思議だ。