たぶんねこが
今週のお題「ねこ」
たぶんねこが好きだ。
ネコ!ネコ!ネコ飼いたい!
と、ヤバTの歌詞ではないが、将来は一緒に暮らせたらいいなぁ、とずっと思っている。
ひと昔前のような、家の近所のねこに餌付けをして、半家猫にするというようなゆるい付き合い方は認められなくなってきており、
現代では、ねこを飼うとなればペット可の住居で、避妊去勢手術をして、完全室内飼いするということがルールになっている。
残念ながら、現在の貯金や毎月の収入では、万全の体制でねこを受け入れることができない。(ペット可住居うんぬん以前に引っ越すことすらままならない…)
ハードルは金銭面だけではない。
旅行や帰省などで家をあけるときに、預けられる関係の人が周囲にいなければならない。(これは金銭で解決しようと思えばできるが)
一人暮らしだとねこにさみしい思いをさせてしまうし、もし何かあった時のことがたいへん気がかりである。
実家では金魚しか飼ったことがない。
していたのは餌やりくらいで、水槽の掃除はほとんど親がやっていた。*1
毎日の世話の負担、自分の手に命がかかっているという体験をしていないので、いきものと暮らすことの責任というのがいまいちつかめていない。とにかくわかっているのは、ただかわいいからという軽い気持ちだけで飼ってはいけないことだけだ。
ここまでダラダラ言い訳のように書いてきたが、本当に熱烈にねこが好きな人なら貧乏だろうが独り身だろうがいきもの買うのはじめてだろうが飼ってしまうのだから、
(それがいいか悪いかはさておき)
わたしはねこに対してのそこまでの熱を持っていないということだろう。
とにかくわたしは現在ねこと暮らすことができないので、猫カフェに行ったり、ねこスポットまで散歩しに行っている。
猫カフェは、いろんな品種のねこがいる猫カフェよりも、保護猫カフェのほうにに行くことが多い。
単に、血統書付きの純血種の独特の顔つきより、雑種の猫(日本猫)の顔つきのほうが好みなのだ。
猫カフェにいくよりも猫スポットに散歩に行くことが多い。というか、流れとしては趣味の散歩をしていたら偶然猫スポットを見つけてしまい、日々猫スポットが増えていっている、というのが正しい。
ねこがいるとついついスマホで写メってしまう。(とりあえずローアングルで撮っておけばなんとかなるとナメている。)
運良くカメラを持っている日は写真を撮ってみたりするのだけれど、あとで見返すと目やにや毛並みが気になって悲しくなることが多々ある。
それにしても、最近は全国いろんな地域で耳にカットの入った「さくらねこ」を見かける。このブログを書くのにカメラロールを漁ったらいつもの散歩道のねこから地方に行ったときに出会ったねこまで、大半がさくらねこだった。すごいことだなあ。
すこしずつ外でねこと出会えなくなっていくのはさみしいけれど、このまま野良猫がいなくなっていくのがねこにとっても環境にとっても理想的なのだ。仕方ない。
家で飼えない人は猫カフェにいけばいい話だしね。
でも、もし野良猫がいなくなったとしたら、雑種は消えてしまうのだろうか。前述したが純血の品種の猫より雑種の日本猫のほうが好みなのでとても気になる。
雑種を育てているブリーダーさんっているのかなあ。
猫カフェのねこやよその家のねこは、ちょっとなぜることはできても、わしゃわしゃしたり抱きしめたり顔をうずめたりすることはできないのが悲しい。そういうの気にせず自由にさわったり持ち上げたりして存分に可愛がりたい。
ねこの安全の観点から、一人暮らしでは保護猫は引き取れないことが多いという。
理屈はわかるが、一人暮らしこそねこといられたら最高なのになあ。一人だと人間は寂しくなるようにできているらしいが、人とずっと居るのは疲れるし疲れさせてしまう。その点、ねこと居ることの距離感のなんとすばらしいことだろう。
などといろいろなことを思いながら、今日もYouTubeでねこ動画を見るのであった。おしまい。おやすみなさい。
*1:ちなみに和金だったこともあり、8年ほど生きた
たかいたか〜い
ブログをふと見返すと、暗い話と明るい話を交互にしていて躁鬱かよ、となったので、今夜は地味で取り留めのない話をする。中身はひとつもない。
歩いていると、高速道路や大きな国道などが高架になっているところや、大きい橋に出くわすことがある。
それが、以前はとても怖かった。
生まれ育ったのは高齢過疎の田舎だったので、徒歩や自転車の範囲でそんなでっかいものと遭遇したことはなかった。
さいきんは高速道路がきて(平成も終わる頃にようやく!)建ったらしいが、とにかくわたしがこどもの頃そういったものは車に乗っている時以外には見かけなかったのだ。
別の土地に住んで、散歩をしていると初めて国道の高架と遭遇した。
立ち止まって、まじまじと見いってしまった。
ぱっとスケールの掴めない大きな人工物。その辺の道とじゃ比べ物にならないくらい高速で走り抜ける自動車。一般道では見かけないような超大型トラック。かたや生身のわたし。絶対に勝てない。即死だ。こわい。
高速道路なら眺めるだけで済むのだが、大きな橋や国道だと、自分も高架に上がってその横を通らなければならないことがある。それがもうほんとうにこわかった。すぐ数十センチ横を猛スピードで通り過ぎる車。いつもより高い視線、地に足のつかない感覚。大型トラックが通るたびに揺れる地面。ただ歩いているだけなのに、ちょっとした興奮状態になってしまう。
首都高の高架下の道や、高架沿いの河川敷の道を散歩するのが趣味になってから、こわさにもずいぶん慣れた。
最初は、これ崩れたらひとたまりもないなと思っていたけど、眺めてみるとおもしろい。
しずかで開けた視界にずどんと伸びる高架。川や河原の自然と、無機的なコンクリートとのコントラスト。
コントラストでいえば、工事中の高架は、木材があてがわれていたりしているのもおもしろい。コンクリのイメージなのに木って。言葉だと伝わりにくいのだが、ちょうど手持ちに写真がないのが残念。
空を見上げるように高架をみると、まるで空中を走っているようである。なんだか近未来的で好きだ。
そこまで怖くはなくなった今でも大きな橋の上を歩くときは、非日常を歩いているようなそんな気持ちになる。
高所は平気なのにまったく不思議だ。
義務チョコ
今週のお題「バレンタインデー」
の話だけど、残念ながら明るい話ではない。とてもとても悲しい話だ。
まあこの世のいろんな会社で行われているであろう義務チョコ。
ほんと誰一人幸せにならない制度だなあと、先月からずっと気が重い。
まともに部署全員に(結局女の人には渡さないみたいなのはギクシャクするから男女問わず全員にばら撒かなければならないのだ。この時点でほんとによく意味がわからない。だったら男女関係なくこの日は全員が部署の全員になんらかのお菓子を送りつけること、みたいにきれいに制度化してほしい。)ちゃんとした箱のやつ渡して、んであれでしょ、上司にはそれより少し高めのやつみたいな。まじでいくらの出費になるんだろう。教えてOLさんたち。
バレンタインデー、学生時代は楽しかったなあ。お菓子作るの下手だけど好きだから、いいきっかけになって張り切って作っていた。
会社の義務チョコで手作りのお菓子なんてのは例外的でない限りあり得ないので、もちろんちゃんと衛生的な包装がなされた市販のものを買うわけだ。
(この理論で、個人的に好きなリーフメモリーでもばらまいとこうかと思ったんだけど、あの包装が万一手作りと勘違いされたらどうしようということで諦めた。同じ理由でお菓子屋さんのおいしい焼き菓子も諦めた。)
ほんとにさあ、仲のいい人にだけあげればいいのにね。
会社の人たちにはまあ、休憩にどうぞみたいなアルフォートみたいなお菓子1つずつ配るとか、それならまあわかるんだけど。
というか去年それでいいと思ってやらかしたのだ。そしたら同じ部署の女性がひとりひとりにガチのちゃんとした箱のやつを配っていて「あっ…………」となってしまった。
別にそういう人がいなきゃ大袋菓子あけて配ってもなんの問題もない。たまたま部署運が悪かった。ちょっと悔しい。(というか自分も貰っておいてこんな愚痴を言ってはいけないし、その女性にも袋菓子で全然問題ないよと言われていたので問題ないっちゃない。ただ雰囲気的に気まずかったのは事実だし、おこぼれでお返しをもらってしまい気まずくなったりもあったので今年はせめてもう少しましなものをあげねばならない)
全員にガチ箱のブランドチョコを渡す経済力は私にはないので、
(相手にも気を遣わせるし、義務ホワイトデーのお返しなんて連鎖をさせては申し訳ないので)
せめて個包装されてるのを箱開けてばら撒こうと思ってるんだけど、ただの透明なビニール(?)のアレじゃあ見た目がイマイチだ。せめて1つ1つが綺麗な包みだといいんだけど、これがなかなかないのだ。お菓子会社さん、ばらまき用の、高くなくてちょうどいい一口チョコを、それ単体で包装の見栄えがあるものを、売ってください。たぶんはちゃめちゃ需要あります。
こんな暗い気持ちでなく、せめて楽しくやりたいよね。
そういや学生時代、バレンタインだし部室にお菓子置いとくかと訪ねると、甘い系の大袋菓子のオンパレードだったので、それならとあげせんべいの大袋菓子をおいといたら大層好評だったなあ。
と思って煎餅屋でも覗いてみたけど、小洒落た個包装のはひなあられくらいしかおいてなかった。バレンタインにひなあられは違うな。
あーあ、ミスドの一口ポンデリングでも各机の上に置くとか、そういうのが許されるなら楽しいだろうにな。さて、明日は早く退勤して無難なお菓子を探すとしよう。以上。
PS.
あの、義務旅行土産の、全く旅行先関係ない地名が書かれたクッキーなどをばら撒かなければならない文化も苦手なので、尚更虚しいのである。ほんとうにお世話になっていると思える人や、仲のいい人達だけに、ちゃんとおいしいと思えるものをあげたいのに。まさに形骸的なものにお金を消耗させられる代表例だ。
(土産のほうは休みを貰ったぶん迷惑をかけているので、幾分納得がいくが。)
こんだけ愚痴愚痴言ってはいるものの、ちゃんと社会人としてやるんだけどね。ね。
お家でチーズタッカルビ!
去年、インスタ映えすると大流行したチーズタッカルビを、お家で作ってみました。
なんでもこの料理、はちゃめちゃ重いらしいのです。新大久保行って頼んでインスタ用の写真を撮ったはいいものの、食べきれずに残すひとが多いのだとか……。興味はあるけれど、残さないためには相当大人数のグループで行かなければならないようです。
そこで友人の少ない私は、自分で作ることにしました。
残さない量に調節できるし、もし多いようなら次の日に回せばよいので気楽です。
レシピはこれらの動画を参考にしました。
【ざっくりとしたレシピ】
1.鶏肉を一口大に切り、タレに漬けてしばらく置く
タレ:コチュジャン・韓国粉唐辛子・すりおろしりんご・生姜・ニンニク・酒・醤油・砂糖・みりん(ケチャップを入れるとよりそれっぽくなると思う)
2.野菜を切る
野菜:キャベツ・ねぎ・さつまいも 等
不安なら、さつまいもは火が通るように事前に軽くレンチンしておく
(韓国語でさつまいもはコグマと言うのだそう。チーズコグマトンカツなど。かわいい……)
キッチンの照明が電球なのでホワイトバランスが難しい。
3.フライパンで焼く
4.温めたスキレットに盛り付け、チーズを入れてとかせば完成!
チーズがとろけている熱いうちに、絡めながらいただきます。
うん、見た目通りの映える味。甘辛くてニンニクが効いたダッカルビにチーズのまろやかさが加わって、とても「強い」。
韓国粉唐辛子は辛さ控えめなのに香りが強い。買ってよかった(※1kg買いました)
化調なし・砂糖みりん控えめにしてりんごで甘さを出しているのでくどすぎず食べられました。これも自分で作るメリットですね。
ひとつ思ったこととしては、チーズとコチュジャン系の相性って、普通においしいんだけれど、例えばピザのトマトソースとチーズとの相性には負けるというか……
味の掛け算ではなく足し算という風に感じました。
重い×重い なので、残してしまう人が多いのも納得です。
小型のスキレットで1人前ちょうどいい感じでした。
そして大食いDBの私は、フライパンに残ったタレでポックンパを作って締めるのでした。おしまい。
(結局お腹いっぱい食べるんかい……)
海苔にだけピントが合ってしまって気持ち悪いですが、これしかないのでお許しください。
追伸:わかる人いたら教えてください
よくYouTubeの韓国グルメ動画を字幕付きで見てるんだけど、どうも「濃厚・まったり・コクがある・マイルド」系の意味が「香ばしい」に訳されてるようで違和感ある。発音は「コソエ」?
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年2月11日
おしえて詳しい人…!
ごま油=香ばしい→わかる
マヨネーズ=香ばしい→?
例:ナドちゃんhttps://t.co/e56WoL1m6Y pic.twitter.com/cDtpP5vHFS
蝋梅
日曜、立春ということで少し遠出をして、そこから更に散歩をすることにした。
偶然かもしれないけれどたしかに暖かい。そして、やや雲の多い青空。まさに春だ。
どうもここ数日洗濯物が乾かないなと思っていたけれど、原因が春だったとは。
花曇り、という言葉があるように春はその明るいイメージとは少しずれていて曇りや雨が多いものだ。
(そういえば前も同じようなことを言っていた)
幸い今日は雨は降っていない。雲はあるが陽も出ている。なんて散歩日和なんだろう。
わたしは休日、てきとうに移動したのち、ラジオを聴きながら海に向かって川沿いを歩く習性があり、この日も気がつくと海沿いの公園にたどり着こうとしていた。
視界がひらけて、正面が平たくなる。青空と青空を反射する青い水面。向かいのビル群。都会の水辺の風景がとてもとても好きだ。
海側から風が吹くためか、凧揚げの聖地となっているらしく、あちこちで凧が揚がっている。
散策していると、蝋梅の咲いているのを見つけた。そうだ、春に先立って咲く花だった。
ぼんやりと透き通った花弁。まさにロウのようだ。
散歩していると、花に鼻を近づけ、くんくんとやっている奥様方とすれ違う。わかる、わかります、その気持ち。
蝋梅はとってもよい香りがするのだ。花の中でいちばん好きな香りかもしれない。
実家の庭にも小さな蝋梅が植わっていて、おばあちゃんとくんくんしては、いい匂いだねえと言い合っていた。思い入れのある花でもある。
(ちなみに、2番目に好きな花の香りは?と言われたら、蝋梅の隣に植わっていた小さな薔薇だと答えるだろうし、3番目はその隣に植わっていた大きな金木犀と答えるだろう)
今日ここに歩いてこなかったら、ことし春の始まりの香りをかぐことはなかったのだ。来てよかった。
とはいえ、その後も調子に乗りすぎて20kmも歩いてしまい足がだるくて寝付けず、月曜日から身体ばきばきだった。何事もほどほどが一番…。
ブログを始めてから1年すぎた。こんな感じで、誰に宛てるでもない中身のない話をだらだら続けていきたい。
マンガ飯「混沌やきそば」作ってみた
こんにちは。
いきなりですが、本題です。
漫画「めしにしましょう」の「混沌やきそば」を再現。麺の味つけにソースじゃなく中国濃口醤油を使うことでより黒くすることに成功したけど、味が混沌としてなくてふつうに美味しい海鮮あんかけやきそばになってしまったのでこれはダメです pic.twitter.com/EINFFYLHYI
— 二十日 (@20th_20ago) 2018年1月29日
やりすぎ飯で有名な料理漫画「めしにしましょう」の四十の膳「混沌やきそば」を再現してみました。
本物はこちら
きっかけは先日食べたレトルトのイカスミパスタです。イカスミ料理自体初めて食べたのですが、これが黒い。思ってた2.75倍くらい黒い。しかも青とか緑がかった黒。
イカ味でおいしいんだけど、脳が食べ物と認識してくれずに食べているそばから混乱していきます。
食べ終わった食器を洗っていると、まるで習字道具を洗っているような気持ちになります。
そこで、これを使えばアレが手軽に再現できるのでは???と再びスーパーでこれを買ってきた次第です。
パスタ用ではありますが、わりとやきそばにも合うような味なので気にせずやっていきましょう。
まずは餡からです。
本物のエントリには「具と汁が多すぎて色全然乗らず」とあるので、具は少なめにしましょう。そもそも一人暮らしで大量に作ると詰みます。
また、確実に色をつけていくために、豚肉に下味として醤油を揉み込みます。
醤油は、黒いことでおなじみの中華濃口醤油をつかいます。見た目の割にしょっぱくなくてまったりした味があります。
具材を煮てイカスミパスタソースと中華濃口醤油とオイスターソースと黒酢で味付け(色付け)し、水溶き片栗粉でとろみをつけたら仕上げにごま油を回しかけておきます。
麺は漫画ではソース味なのですが、より黒くするために中国濃口醤油味にしてみましょう。あと創味シャンタンと、こちらにも少しパスタソースをかけて炒めます。
はい
餡をかければ完成です。本物より黒く作ることができたのではないでしょうか。
味としてはふつうにおいしい海鮮中華あんかけ焼きそばという感じです。パスタソースであることはあまりに気になりません。あとしょっぱい。イカスミじゃなくてレトルトソースな上に醤油やらなにやら使っているので当然ともいえます。
混沌やきそばはソースとあんかけが混ざり合うことでできる「知らない味」ゆえの「混沌」 であり、これはふつうにおいしいので「混沌やきそば」ではないのかも知れません。
ともあれおいしく完食できました よかったですね
こだまさんの「ここは、おしまいの地」を読んだ
こだまさんの「ここはおしまいの地」届いてすぐ読了した。
ガラケーだった当時、何処からか覚えていないけれどこだまさんのブログに行き当たり、貪るように「前へ」のボタンを押した夜。めちゃめちゃ動作が重くもどかしかったあのサイト。
今、待ち時間なくどんどんページをめくっていけるのがとてもとても嬉しく、読むのが遅いほうなのにすぐ読み終わってしまった。
慣れない紙の読書で頭痛がんがんだ。
私には強いエピソードになる過去も、こだまさんほどの集落生まれでもない。
でも、田舎特有の狭い人間関係、世間への無知の恥ずかしさなどをずっと抱えて、地元を出た今でも生まれた田舎のことを引きずっている私は、こだまさんの集落の話と、学生のころの話が大好きだ。
自分の過去も思い出す。金髪豚ヤンキーみたいな強烈なキャラこそいなかったが、そういえば小学校の頃にかるく学級崩壊したことがあった。教室中に「○○(先生の名前)死ね」と油性ペンで書き殴ったり、すぐ蛍光灯を破っては「(投げた)ペットボトルが割りました」と反省ゼロの言い訳をしていたあいつのせいだ。2年受け持つはずが、ベテランの先生でも耐えられず翌年遠くの学校へ異動してしまった。新しくやってきたのは髪ツンツンで口が悪い若い男の先生だった。教室の冷房18度に設定するクールガイ。持ち前の荒々しさで不良をうまく取り込んで見せたんだった。
あの不良、高校の試験に落ちて親のコネでオーストラリアに行くとかいってたっけ。そういう話はすぐ耳に入るのが田舎だ。果たしてその後どうしているだろうか。
長女に生まれ、下のきょうだいが、明るく人とよく話せるのを羨んでいた。きょうだいが身に付けるものすべて自分よりずっとセンスが良く、自分が身に付けるものは格好悪く思えた。
大人になって、性格が完全に丸くなったわけではないけれど、今でも険悪になることはあるけれど、きょうだいの性格を受け入れて、苦手な部分はお互いある程度流して、会話ができているのがとても楽しい。
家を出て大人になって、帰省するたびに家族の変化を身に感じる今、昔よりこだまさんの家族の文が沁み入る。
穂先メンマの章、2回読んでしまった。
手の甲にある、妹との喧嘩のとき爪が刺さった傷跡をなでた。些細な言い合いが発端の、何年も残る傷跡。でも消えなくていい。
自分のことを深く考え込む夜、根暗で変人な性格をなんど変えようと思った(思っただけ)かわからないけれど、無理やり明るくならなくてよいのだ、格好つけなくても、友達が少なくても、生きりゃいいんだと肯定してもらえているような気になる。
この本のように、過去の一つ一つのことを受け入れて、エピソードとして笑えるような文がかけたらいい。
読書感想文のつもりが自分語りになってしまった。とにかく大好きな本です。
最後に、骨の赤ちゃんが大きくなることを遠くから願っています。